食べること

食に興味がないんだね、と言われることがある。主に夫からだ。夫は隙あらば美味しいお店の情報を集め、訪れる機会を狙っている。買ってきたお惣菜にもひと手間かけて何かしらアレンジしたがるタイプだ。それに比べると私は、食に対して熱量がない方かもしれない。個人店よりも気楽に入れるチェーン店を選びがちだし、新メニューに挑戦することはほとんどない。決まったメニューをいつも通り選ぶ。気に入ると飽きるまで延々と同じものを食べ続ける。そういえば高校生の時に一ヶ月ほど入院した際、お見舞いに来てくれた友人が「こんな時までハリボーのグミを食べてる!」とベッド脇の机に置かれたハリボーのコーラグミの山を見て叫んだことがあった。それくらい同じものを食べ続ける質だ。

そんな私は夫の目には「食に興味がない人間」と映るらしい。興味がないわけではもちろんない。美味しいものを食べるのは幸せのひとつだ。ただそれが夫のように最優先ではないことは、自覚としてある。

昔から「お腹すいた」と言うのに抵抗があった。学生時代の友人に、やたら「お腹空いた」と言う子がいた。お腹が空いた、というセリフはコミュニケーションを始めようという合図になる。お腹空いたね、じゃあ何か食べに行こうか。そこからあなたと私の関係が始まる。けれど私は、彼女の「お腹空いた」を聞くたびに居心地が悪くなった。彼女は挨拶がわりのように頻繁に「お腹空いた」を連発する。私は空腹であることを他人に曝すのは恥ずかしいと思っていた。ものすごく原始的な欲求をぶつけらているようで、恥の意識が刺激されてしまう。大袈裟に言うと、他人に無防備な部分を晒しているようで、不安になるのだ。恥と不安。私の根っこに「食」へのいびつな感情が埋まっている。

以前、知人に遠回しに料理が下手だと言われたことがある。軽い冗談のように言われたけれど、ぐっさり胸に刺さって、今でもまだ傷は生乾きのままだ。確かに私は料理が苦手だ。不器用で大雑把なので、食材を切るのも盛り付けも下手だ。味は悪くはないと思うが、もっと美味しく作れる人は山ほどいる。料理下手だと自覚はあるものの、他人に言われるとかなり破壊力があった。屈辱感と悲しみ、そして申し訳なさがごちゃ混ぜになって胸が重くなった。申し訳なさの対象は、子どもや夫だ。私の料理を食べるのは圧倒的に家族なのだ。家族は文句ひとつ言わず、美味しいと食べてくれる。けれど私は罪悪感で息苦しい。どうしてこんなに苦しいのだろう。内側を掘り起こしてみれば、ぼんやりと母の顔が浮かぶ。毎日ごはんを作ってくれた母。それを食べて生きてきた私。料理は愛情と結びつけられる。料理=母の愛、という安易な図式はいまだに根深くある。夫が無邪気に食べることを楽しめるのは、その図式から外れているせいかもしれない。料理の腕を否定されるのは、育ちや人格を否定されるくらいおおごとだったのだ、と初めて実感した。

「食べることは生きること」

「あなたはあなたの食べたものでできている」

食べることの喜びは呪いと紙一重だ。大好きな人と美味しいものを楽しく食べる。ただそれだけのことが、難しい。