クリスマス礼拝

12月に入り、息子の幼稚園ではクリスマス・ページェントの練習が始まった。ページェントとはイエス様が生まれる前後の物語を見せる劇のことだ。年少さんは子羊や小熊に扮し、年長はマリア様やヨセフ、東方の三博士などを演じるらしい。息子は今年が初めての参加なのでどんなふうになるのか楽しみだ。

幼稚園の隣にある教会では保護者向けにクリスマス礼拝を開いてくれる。お手持ちの聖書があればお持ちください、とお知らせにあったので本棚を探したら古い聖書を発見した。手に取るのは約20年ぶりかもしれない。背表紙が外れかけるほどボロボロだ。中高生の頃は、この聖書を毎日抱えて礼拝をしていた。ブルーグレイのチェック柄の聖書カバーがなつかしい。入学してすぐに家庭科の授業で縫ったものだ。ひとりでは縫い方がわからず、当時ケガで入院していた母の病室に持ち込んだ。母は縫い物が苦手な上に左手を怪我しており、針なんて持てるわけなかったのに。2人して途方に暮れていると、同室の女性が声を掛けてくれた。その人はアイススケートの最中に転んで足の骨を折ってしまい、母より長く入院していた。「手は使えるからやってあげる」包帯でぐるぐる巻きにされた足がベッドからはみ出している彼女に手招きされ、私はおずおずと布と裁縫道具を渡した。その人は言ったとおり、あっという間にカバーを縫い上げてくれた。面会時間が終わる前に、私は安心して病院から帰るタクシーに乗り込むことができた。

そんな思い出がこの聖書カバーにはあったのに、今の今まで忘れていた。よれてしまったページをパラパラめくると、ときどき聖句にアンダーラインが引かれている。聖書の授業で扱った箇所だろう。その線を眺めていると、当時使っていたペンのことまで記憶がよみがる。ソニプラで買ったペン。このペンで授業中によく手紙を書いた。眠たい目をこすりながら聖書を抱え、礼拝に出た。冬は木の長椅子に座ると太ももが冷たくていやだった……そんなとりとめのないことばかり思い出していくうちに、あの頃の自分と今の自分は地続きのはずなのに、ページのあいだにはさみこまれ、忘れられていた私の欠片が、確かにあったのだと気づいた。クリスマス礼拝では、また違う私の欠片をみつけられるかもしれない。