平等ってなんだろう。

先日、幼稚園からあるお知らせがきた。今までは保護者の有志がお手伝いしていた図書当番が、来年度からは廃止になるという。

図書当番は週に1回、絵本の貸出と返却を見守るのが主な活動だ。登園すると図書室に子どもたちが続々と現れ、本を選んでいく。いつも同じ本を借りる子、早く園庭に行きたくてとりあえずそのへんの本をつかんで飛び出して行く子、パパに似てるんだよ、と枝にぶら下がったナマケモノのページを見せてくれる子…本を借りるだけでも子どもたちのキャラクターが垣間見える。行事では見れない、子どもたちの園での様子がのぞけるのが面白くて、楽しくお手伝いしていた。けれどお手伝いしてくれる保護者の負担を考えて、来年度からは全ての保護者の当番制になった。普通に考えると、それが平等なのかもしれない。全員で子どもに関する作業を負担しあう。一部の有志の善意に甘えない。確かに平等だ。

けれど少し窮屈な気分にもなった。当番制だと年に1、2回しか係が回ってこないので、みんな手探り状態で作業をする。仕事ではないので完璧さは全く求められないが、ノウハウは受け継がれなくなるし、細かな改善点などもあがらなくなると思う。なにより「平等に全ての保護者がやる」という強制が、図書係を鬱陶しいものに変えてしまわないか。そうなったら悲しいな、と勝手に危惧してしまった。

そんなに大変な作業でもなかったけどな。楽しくやっていた私が呑気すぎたのかな。もしかしたら図書係のまとめ役をしてくれていたお母さんたちの負担は大きかったのかもしれない。人数の確保や予定の調整は面倒くさいだろうし…。いろいろな考えが頭をよぎる。大袈裟かもしれないけど、窮屈な社会の風がここにも吹いてきたようで寂しくなった。どこも人手が足りない。時間も足りない。お金も足りない。余裕がない。それでも全ての係を平等に当番制にして、逆に失われるものがあるかもしれない。そして失われたものは、もう戻らない。