怒り

何年か前に、怒りの感情は6秒しか続かない、という言説が流行った。だから6秒だけ我慢せよ、そうすれば怒りは去る、と。

怒るのは体も心も酷使する。怒っている本人もそれを受け取る人、または間近で見る人も疲弊する。だから怒りは忌避され、6秒後には空気に溶かして消滅させるのが望ましい。

そんな話を聞いても、「ふん!」と私の鼻息は荒くなる。6秒?いやいや。私の怒りは冷凍保存され、10年経っても瞬時に解凍できてしまうのだ。甘く見ないでくれ、いつでもフレッシュな状態でお出ししますよ。

夫はそんな私を見て「執念深い」だの「恐ろしい」だのと呆れ、怯えたふりをする。夫が原因の怒りだけではなく、社会的なイシューに対する憤りも、身近にいる夫に話す。「俺に怒っても仕方ないだろう」とかわされる。横で憤っている人がいると居心地悪いのはわかる。でも「俺に怒りの矛先を向けるな」と言われて余計に頭に来るのは、あなたはこの話に無関係ではないはずなのに、どうしていつも他人事なのか、そんな虚しさが積もっているからだ。私を怒らせる夫の不用意な発言や行動も、社会的な構造の歪みも、実は根っこの奥深くでは全てつながっている。それを何年もゆっくり優しく説いていても我関せずなのだから、私のこの切実さはどこに向かえばいいのだろう。切実さは怒りに変わりやすい。変わってもいい、と思っている。6秒くらいで消せるわけない。

 

友人の披露宴に出席した際、席にカードが添えてあった。新婦が招待客ひとりずつに丁寧な字でメッセージを書いてくれたのだ。私はそっとカードを開き、驚いた。

「あなたはよく怒っていたね。自分のためではなく、人のために」

え、私ってそんなに怒っていたんだ。確かに正義感が強いというか、曲がったことが嫌いで融通がきかないところはある。幼い頃から親に「短気は損気!」とたしなめられていた。けれど友人に言われるほど怒りをあらわにしている自覚はなかった。彼女の私への印象と自覚のズレに驚いてしまった。メッセージは、あなたは人のために怒れる誠実さがある、という内容だった。そういう風に受け取ってくれるなんて、ありがたくて良い友人を持てたな…としみじみしているうちに、新郎新婦の入場となった。満面の笑みと拍手で迎える。これからも私は怒る。その先の笑顔のために、怒るのだ。

平等ってなんだろう。

先日、幼稚園からあるお知らせがきた。今までは保護者の有志がお手伝いしていた図書当番が、来年度からは廃止になるという。

図書当番は週に1回、絵本の貸出と返却を見守るのが主な活動だ。登園すると図書室に子どもたちが続々と現れ、本を選んでいく。いつも同じ本を借りる子、早く園庭に行きたくてとりあえずそのへんの本をつかんで飛び出して行く子、パパに似てるんだよ、と枝にぶら下がったナマケモノのページを見せてくれる子…本を借りるだけでも子どもたちのキャラクターが垣間見える。行事では見れない、子どもたちの園での様子がのぞけるのが面白くて、楽しくお手伝いしていた。けれどお手伝いしてくれる保護者の負担を考えて、来年度からは全ての保護者の当番制になった。普通に考えると、それが平等なのかもしれない。全員で子どもに関する作業を負担しあう。一部の有志の善意に甘えない。確かに平等だ。

けれど少し窮屈な気分にもなった。当番制だと年に1、2回しか係が回ってこないので、みんな手探り状態で作業をする。仕事ではないので完璧さは全く求められないが、ノウハウは受け継がれなくなるし、細かな改善点などもあがらなくなると思う。なにより「平等に全ての保護者がやる」という強制が、図書係を鬱陶しいものに変えてしまわないか。そうなったら悲しいな、と勝手に危惧してしまった。

そんなに大変な作業でもなかったけどな。楽しくやっていた私が呑気すぎたのかな。もしかしたら図書係のまとめ役をしてくれていたお母さんたちの負担は大きかったのかもしれない。人数の確保や予定の調整は面倒くさいだろうし…。いろいろな考えが頭をよぎる。大袈裟かもしれないけど、窮屈な社会の風がここにも吹いてきたようで寂しくなった。どこも人手が足りない。時間も足りない。お金も足りない。余裕がない。それでも全ての係を平等に当番制にして、逆に失われるものがあるかもしれない。そして失われたものは、もう戻らない。

クリスマス礼拝

12月に入り、息子の幼稚園ではクリスマス・ページェントの練習が始まった。ページェントとはイエス様が生まれる前後の物語を見せる劇のことだ。年少さんは子羊や小熊に扮し、年長はマリア様やヨセフ、東方の三博士などを演じるらしい。息子は今年が初めての参加なのでどんなふうになるのか楽しみだ。

幼稚園の隣にある教会では保護者向けにクリスマス礼拝を開いてくれる。お手持ちの聖書があればお持ちください、とお知らせにあったので本棚を探したら古い聖書を発見した。手に取るのは約20年ぶりかもしれない。背表紙が外れかけるほどボロボロだ。中高生の頃は、この聖書を毎日抱えて礼拝をしていた。ブルーグレイのチェック柄の聖書カバーがなつかしい。入学してすぐに家庭科の授業で縫ったものだ。ひとりでは縫い方がわからず、当時ケガで入院していた母の病室に持ち込んだ。母は縫い物が苦手な上に左手を怪我しており、針なんて持てるわけなかったのに。2人して途方に暮れていると、同室の女性が声を掛けてくれた。その人はアイススケートの最中に転んで足の骨を折ってしまい、母より長く入院していた。「手は使えるからやってあげる」包帯でぐるぐる巻きにされた足がベッドからはみ出している彼女に手招きされ、私はおずおずと布と裁縫道具を渡した。その人は言ったとおり、あっという間にカバーを縫い上げてくれた。面会時間が終わる前に、私は安心して病院から帰るタクシーに乗り込むことができた。

そんな思い出がこの聖書カバーにはあったのに、今の今まで忘れていた。よれてしまったページをパラパラめくると、ときどき聖句にアンダーラインが引かれている。聖書の授業で扱った箇所だろう。その線を眺めていると、当時使っていたペンのことまで記憶がよみがる。ソニプラで買ったペン。このペンで授業中によく手紙を書いた。眠たい目をこすりながら聖書を抱え、礼拝に出た。冬は木の長椅子に座ると太ももが冷たくていやだった……そんなとりとめのないことばかり思い出していくうちに、あの頃の自分と今の自分は地続きのはずなのに、ページのあいだにはさみこまれ、忘れられていた私の欠片が、確かにあったのだと気づいた。クリスマス礼拝では、また違う私の欠片をみつけられるかもしれない。

2023/12/9

出先で娘がアイスを食べたい!と駄々をこねた。また今度ね、と適当にかわしたら「明日生きているかもわからないから今食べたい!」と屁理屈で返してきた。屁理屈と書いたけど、確かに天変地異や事故、突然の病でいつ命が尽きるかわからない。ウクライナパレスチナで起きている惨状を思うと胸が痛む。明日まで命をどうやって繋いでいけばいいの?人間が人間を、勝手に作り上げた理由で虐殺している。どうやって止められるのか。こうやって文字にするだけでは止められない。デモに参加する、虐殺に加担している企業のサービスは避ける、首相官邸に意見を送る…これくらいしか思い付けないけど、やれることをやろう。

文学フリマ つらつらと感想

文学フリマ東京37に出店した。2,000近いブースが2会場に分かれて並び、来場者数は1万人以上という大規模イベントだった。

私は9月に開催された文フリ大阪に先に参加していた。大阪は東京の半分ほどの規模だ。そのおかげでお客さんは事前に調べていないブースにも気楽に立ち寄り、立ち読みしたりお話しする余裕があった。本の説明をしたり、東京から来たんですよ〜と話したりできた。帰る間際に見本誌コーナーでみつけて、買いに戻ってきてくださった親子のお客さんもいた。嬉しかったです。

そして東京の感想。お、大きすぎる!まさに砂漠の中の一握の砂になった気分だった。人は絶えず目の前を行き来するので大阪より時間はあっという間に過ぎた。両隣りのブースは有名な方たちだったようで、絶えずお客さんが訪れていたが、私は割とのんびり。こんなに広いとお客さんは事前に調べたブースを回るので手一杯だろう。私も1人で出店していたので、始まってすぐにチェックしていたブースを回って買物を済ませ、あとは店番をしていた。もっとその場にいるからこその思わぬ出会いがしたかった。

こんなにたくさんのブースの中から見つけてもらい、お買い上げいただく。これだけで途方もない奇跡だ。ありがとうございます!他のイベントでスタッフだった方や知り合った方、友人の知人の方がわざわざ訪れてくださったのも嬉しかった。こ、こんな小さな小さな砂粒ブースにお越しいただき…卑下するわけでもなく、本当にありがたいなぁ、嬉しいなぁ、と胸が熱くなる経験だった。

初めて出店した時もそうだったが、周りの人が売れていようがいまいが、ほとんど気にならない。出る前は自分だけ誰にも相手にされなかったら惨めだ…なんて心配して不安だったが、いざ始まるとほぼ気にならなかった。なぜだろう?別に私の肝がすわっているから、ではない。むしろ小心者だ。とにかくイベントは始まれば終わるので、数時間は他人のことは気にせず周りの熱気や興奮に乗って淡々と楽しむ。それができたらもう精神的には大成功だ。1人でも立ち寄って買ってもらえたなら更に幸せ。ありがとうございます!楽しかったです。

しかし、あまりに大規模なので次も東京に出るかは悩みどころだ。私みたいな超初心者はもう少し小規模の方が参加しやすい。

今年は初めて本を作り、それを読んでもらうためにイベントに参加する、というのが目標だった。無事にいくつかのイベントに参加し、何人もの人の手に届けることができた。去年の今頃は、初めて文学フリマの存在を知り、お客さんとして来場した。楽しそうに本を作っている人たちを見て、いつか自分も本を作って出店してみたいな、なんて思っていたのだ。まずは一緒に出る知り合いを作って、それから本を作って…なんて考えていたが、いやいや、そんな悠長なことを言っていたらいつになるかわからない、1人でもやってしまえ!と決意して今日に至る。人間、やる時は1人でもやれるのだ。

今年の本に関する活動はひとまず終わった。今後はもっと文章力を高めるべく、励みます。

歩文舎コソコソ話③ 四苦八苦したZINE作り

印刷所に入稿するやり方は覚えたので、今度は自分で印刷して製本してみたくなった。コピー用紙に印刷してホッチキスで留めた、いわゆるZINEに挑戦したい。

肩の力を抜いて読んで欲しいので、文章も勢いにまかせてほぼ一発書きだ。大きさは文庫サイズにしたい。A4縦に文庫サイズの原稿を4枚面付けして上下で切り離せば文庫サイズになるはず。なんとか面付けを考えデータを作り、印刷して切ってみたら……変な余白が紙の上下にできてしまった!原稿の余白設定のせいなのか、原因はよくわからない。パソコンで原稿を作れば解決しそうだが、スマホで作りたかった。さらに文庫サイズ(A6)ではなくA5やB6だったらコンビニのコピー機の小冊子機能で面付けもしてくれる。いっそサイズを変更しようか悩んだが、やっぱり文庫サイズで作りたい。こじんまりしていてポケットにも入る文庫サイズこそ、このZINEのテーマ「気楽にあなたと話したい」にぴったりなのだ。

四苦八苦し、結局は縦式で文庫サイズのデータをつくり、画像としてcanvaに貼り付ける方法でなんとか文庫サイズの中綴じZINEが完成した。これより楽できれいにできる方法はあるだろうが、今の精一杯の力で作ったので、できあがったZINEはとてもかわいく思える。タイトルは『あなたと話したい いくつかのこと』にした。

印刷はリソグラフを使った。リソ機からシュポッ、シュポッと原稿が飛び出てくる姿は、ずっと見ていたくなる。印刷所にお願いした方が楽だけど、また懲りずに自分で作ってみたくなる。中毒性のある作業だった。

歩文舎コソコソ話② タイトル決め

『てのひらの散文』は日常のふとした瞬間を留めておきたくて書き連ねたエッセイ集だ。

10本のエッセイを書き終わり、それらを束ねるタイトルを考えた。覚えやすく、パッと見て意味が通じるような……色々と考えて思い浮かんだのが「てのひら」だ。手に載るほどささやかな場面を集めた文章たち、という意味を込めて『てのひらの散文』に決めた。

しばらくしてから、そういば川端康成に『掌の小説』という本があったことを思い出した。どこから読んでも楽しめる、かなり分厚い掌編小説集だ。川端康成の「掌」にあやかって私の「てのひら」も読んだ人の心に残ればいいな、とちゃっかり偶然の一致を喜んだのだった。

 

2冊目の『わたしの積読解消日記』というタイトルは一発で決まった。読書好きの主婦が、買ったまま読めずに積んである本の山を少しずつ読んでいく。書評でも読書感想文でもなく、日々の営みのかたわらに読書がある。そんな様子を記録したかった。

読み返すと、当時の生活と読んでいた本の内容が裏側で繋がっているようないないような、なんだか面白い本になった。