不安とわたし②

なぜ不安障害になったのかというと、ざっくり言えば睡眠不足のせいだろう。

2019年当時、息子はもうすぐ2歳になるところだった。数ヶ月前に急に始まった夜泣きがとても激しく、私はすっかり疲弊してしまった。1歳までは、泣き出したらそっとお気に入りの毛布を握らせれば、ことんと眠っていたのに。下の子は育てやすいって本当だね〜、なんて呑気に笑っていた過去の私がなつかしい。

息子はある時、正確に言えば家族で訪れた台湾のホテルで、急に悪魔が乗り移ったかのごとく泣き喚いた。抱っこしようにも全力で抵抗されるので、手が出せない。右に左に上に下に、力の限り手足を振り回して転がり続ける。海老反りになって背中を布団に打ち付けている息子を、離れてただ見守るしかできなかった。恐ろしいのは、本人は眠っていて無意識なのだ。目はしっかり閉じられ、体だけが泣いて暴れている。息子が何かに乗っ取られた!本気でそう思った。そんな地獄のような時間が2時間ほど続き、こちらの体力が限界に近づいたころ、前触れなく静かになった。ぱつんと糸が切られたように眠りの幕が降りた。今までのは悪夢だったのか?息子の寝顔を覗き込むと、髪の毛は汗びっしょりで額に張り付いている。やっぱり現実なのだった。さらに不思議なのは、こんなに同じ部屋で大騒ぎされているのに、娘はちっとも目を覚まさない。一体、どうなってるんだ。この日から、息子の悪魔タイムは毎日のように続いた。

悪魔タイム以外、息子は静かに深く眠っている。日中も元気だ。問題は私の方だった。耳を貫く泣き声と暴れる手足がナイフとなって、私の気力の芯を少しずつ削いでいった。そしてある秋の夜、ついに最後の一皮が剥かれてしまった。

不安とわたし①

あ、日記は書かなくていいですよ。

医師の予想外な言葉に驚いて、ハンカチに埋めていた顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、ひどい顔のはずだ。医師はそんなものは見慣れているようで、さっと箱ティッシュを差し出しながら、話を続けた。

書くと余計に不安が強くなるので、何も書かなくていいです。自分の頭の中で何度も不安をこねくり回して、増幅させてしまいますから。

そんな。

今の私にできる唯一のことが、日記を書くことなのに。こんがらがった頭の中を整理したくて、ただひたすらにノートのページを埋めていた。どうしてこんなことになったんだ?何が怖い?背後に感じる黒いざわざわしたものは何?

不安の正体をつかみたくてノートに向かっているはずなのに、医師の言うとおり、書けば書くほど不安が湧いてきてしまう。それでも、布団に潜り込んで、泣きながら寝ているだけよりはマシだと思っていた。

とにかく、何もしなくていいです。今は頭の回路の調子がおかしくなっていて、不安の回路が太くなってるんです。

確かに、不安に関することだけは頭が冴えまくり、次から次へ考えが浮かんでくる。こんな時だけ冴えなくていいのに。

今何か書いても、ろくなことにならないので。

カタカタとリズムよく医師はキーボードを叩き、薬を処方してくれた。そしてこの一ヶ月間、涙と不安にまみれた私の状態に、名前がついた。

「不安障害」

そのまんまだ、と少し笑えた。

 

※2019年の話を振り返り中。

ひとこと保育日記

保育園の子どもたちと公園に出かけた。椿の花がぽとりと落ちている。桃色がきれいな丸い椿。子どもたちは我先にと拾う。全員分の花はもちろんない。これは僕のだ、わたしのだ!とケンカになりながら、袋に入れる。

「先生、これはわたしのだからね、絶対に覚えててね!」

他にも枝や小石、どこから見つけてきたのかブロックの塊まで見せにくる。なんとかなだめてブロックは公園の隅に置いて帰った。

あれだけ大騒ぎしたのに、部屋に帰って花を差し出しても、もはや誰も興味なし。拾うことが楽しいのだ。わかるわかる。仕方なく棚に並べた椿をぽんと撫でて、また子どもたちの輪の中に戻った。

地域について思ったこと

隣近所に気軽に話せる人はいるか。私は、いない。ご近所の人たちとは、玄関先で顔を合わせれば挨拶する。一言二言は話す。家族構成も、お子さんの名前も知っている。けれど、少しでも家の前を離れたら、はたして挨拶できるだろうか。スーパーやファミレスや、公園で不意に会った時、お隣さんだとすぐに認識できるか。家の前にいるから、お隣さんだとわかる。それ以外の場所では風景に溶けてしまう。よく考えたら恐ろしい。

自然災害が頻発している。コロナ禍のように、いつ病気が蔓延するかわからない。それなのに、半径数メートルに住んでいる人たちの顔がおぼろげなんて、ぬかるみに住んでいる気分だ。

中学生から、電車通学をしていた。小学校以来、地元に知り合いはいない。地域に思い入れもない。では、中高で通った街に思い入れはあるかというと、これもない。母校愛は多少はあるが、土地そのものにはない。母校だけ街から浮いているように、校門から先だけが愛着の対象だ。今思うと、十代のうちから地域に関わることは大切だった。子どもたちの小学校では、地域探検や職業体験で地元のお店や施設を回っている。中学生が一日、幼稚園に体験で来て息子と遊んでくれたこともある。遠い学校に通っていると、地域と根付く経験が希薄だ。面倒くさくても、何かしら土地と関わる経験は必要だった。覚えていないだけかもしれないが、中高にはそういう授業はなかったと思う。たとえば学校周りのゴミ拾いくらいでも、生徒たちでやってみると良かったかもしれない。十代のうちに、地域や社会で小さくても活動してみる。その経験から手応えを得て、さらに大きな目線で社会を自分と紐づけていく。そんな経験を、子どもたちにはしてほしい。

ご近所さんとは、何かあったら助け合える関係をつくりたい。ほんの少しのことでも声掛けできるような、ふわっとした関係でいい。監視ではなく、見守り。この先もこの土地に住むつもりなので、今から少しずつ地域を耕していこう。

新米保育士日記1 水気をしぼりたい

保育士日記とタイトルにつけたが、今から書くのは保育ではなく給食の調理について、しかも生ごみについてだ。

ときどき調理のお手伝いとしてキッチンに入る。なんだかんだ勤務日の半分くらいは保育士ではなく調理補助をしている。主婦だから料理ができると思われているのかもしれないが、10年以上やっていても、私の料理の手際は悪い。調理はさみと炊飯器の力を借りて、毎日やっとのことで家族の食事を作っている。野菜を切る、盛り付ける、洗い物などの単純作業でも、給食となると作業量が違う。時間も決まっている。乳児が食べるので食材の大きさにも気を使うし、アレルギーの有無もある。責任重大な仕事だ。さらに、長時間立ちっぱなしで下を向くので首と肩が凝り固まる。料理も保育も肉体労働なのだと、やってみて身にしみた。

調理をしていると、当たり前だが生ごみがたくさん出る。野菜や果物の皮、切れ端などがシンクに置いたポリ袋に溜まり、さっとゴミ箱に捨てられる。水気がたっぷり含まれた生ごみを捨てる度に、ある衝動に駆られる。あぁ、水気をしぼりたい!

家ではなるべく生ごみを乾燥させてから捨てている。その方がごみを燃やす際の燃料が抑えられると知ったからだ。夏はすぐにからからに乾き、かさが減る。悪臭もしない。細かく刻んで花壇に埋めれば肥料になる。自然に良いことをしている気がして楽しい。

が、給食を作る時にそんな悠長なことはしていられない。大量の食材を時間内に調理している最中に「生ごみをしぼって干してきますね〜」なんて、言えない。せめてしぼって新聞紙にくるんで捨てたいが、その余裕もない。毎回、小さな無力感が湧いてくる。家庭の生ごみをいくら乾かして捨てたとして、なんの意味がある。大規模な調理場の意識とオペレーションが変わらなければ大きなインパクトは生まれない。私のしていることなんて、あまりに小さすぎる。けれど一度始めてしまったら、もうやめられない。自己満足でも、その方が気持ちがいいから。結局は自分のためなのだ。

今日も汁気たっぷりのオレンジの皮と切れ端を乾かしたい衝動に駆られつつ、ごみ箱に葬った。もう少し仕事に慣れて信頼関係が結べたら、話せるかもしれない。水気をしぼりたいですよね。いっそコンポストを設置したいですよね、なんて軽く話せたら、一歩前進だ。これも自己満足なのだけど。