やるせなくなって、ふてくされ、和室にこもっていた。ひとりになりたかった。畳に寝転んで暗い天井をにらみ続ける。それしかできない。細く開いた襖の隙間から、ベルが鼻先をのぞかせた。光と一緒にするりと入り、私の脇腹に潜り込む。もの言わずただ体をくっつけて丸くなる。部屋の外から家族たちがベルを呼ぶ声がする。もう寝る時間だから、行きな、と促しても動かない。首周りをなでてあげると、ぱたぱたとしっぽが畳を打つ。良い音。ベルー!と家族が大きな声で呼ぶ。ベルは和室を出て行くが、またすぐに戻ってくる。今、この家の中で誰が弱っているのかがわかっている。どうしてこんなに優しいいきものがいるんだろう。
ベルがいる はじめに
世界で一番有名なビーグル犬は?ときかれたら、スヌーピー!と大きな声が返ってくるだろう。黒い垂れ耳に賢そうな横顔。屋根で昼寝しているばかりと思いきや、上機嫌で踊ったり、タイプライターで執筆したり、「配られたカードで勝負するしかないのさ」なんて名言をつぶやいたり。実に愛おしい、世界一有名なビーグル犬、スヌーピー。
我が家にも世界で一番かわいいビーグル犬がいる。名前はベル。11歳の立派な淑女だ。ちなみにスヌーピーの妹もベルといい、このキャラクターにちなんで名付けられた。
ベルは私の両親が飼っている犬だ。ベルが初めて実家に来たとき、私はすでに結婚して家を出ていたので一緒に暮らした経験はない。だから厳密に言うと、ベルは我が家の犬ではなく、両親の犬だ。
そんなベルが、二週間だけ我が家にやってくることになった。両親が念願のフランス旅行を満喫しているあいだだけ、預かることになったのだ。子どもたちは大喜びした。ずっと犬がいる生活に憧れていた。夫も楽しみな気持ちを隠せずニヤニヤしている。ベルが来るまであと二週間。それまでに家の片付けをしておかないと。
相棒
息子が急にウルトラマンにハマった。たまたま出先でウルトラマンと怪獣のフィギュアを買ったのがきっかけだ。その日以来、いつもそばに置いている。食事のときは、食卓にウルトラマンと怪獣たちを並べる。食べるのが遅い息子の応援団だ。ときどき自立できなくてお皿にダイブしてしまうが、仕方ない。寝るときはもちろん枕元に並べるし、出かける時は厳選した一体を右手に握りしめている。常に「トゥ!ウォ!ウオリャー!」と雄叫びをあげ、ウルトラマンと一緒に戦っている。夢中だ。
息子には、赤ちゃんの頃からずっとお供にしているブランケット型のぬいぐるみがある。うさぎのミミちゃんだ。ミミちゃんは、六年間キープしている相棒の座を、新参者のウルトラマンに奪われかけている。まだ寝るときはミミちゃんを抱きしめているが、それ以外はソファに置かれたまま。あんなに片時も離さなかったのに。おかげで数ヶ月ぶりにミミちゃんを洗うことができた。つけおきした水を何度替えても真っ黒になるほど、汚れていたミミちゃん。いつもありがとね、と思わず話しかけてしまった。息子がミミちゃんを卒業しても、ずっと手放さずにおくと決めている。真っ黒で、生地は縮れてスカスカになっているけれど、このボロさが愛おしい。幼児期を共に乗り越えたミミちゃんは、実は私の相棒でもあるのだった。
月と祈り
寝る前、子どもたちは必ず月を探す。ベッドに入る夜の9時頃に、月はちょうど寝室の窓から見える位置に浮かんでいる。カーテンを開いて月を見ては、一言声を掛ける。明日も楽しく過ごせますように。今日はなんであんなに赤いのだろう。あそこの雲が光ってるから、月が後ろにあるんだね。物心ついてから自然とついたその習慣は、子どもたちにとって、眠る前の祈りの時間なのだった。
2023/8/7
夜、寝入る瞬間に指さきに蝶がとまった。黒く縁取られた羽は、光の粒を含んだように青くきらめいている。驚いて振り払うと、蝶は消えてしまった。夢というにはあまりに鮮明で、夜の闇に消えた蝶を追いたくなった。どうしてここに来たの。どこへ行ったの。そのまま眠りの底に沈んでいった。
彼らのことば
『目で見ることばで話をさせて』
作:アン・クレア・レゾット
タイトルに惹かれて手にしたこの本は、ヤングアダルト向けの小説だ。
目で見ることばとは、手話のことだ。19世紀のはじめ、11歳のメアリーは、生まれつき耳が聞こえない。同じくろう者の父、聴者の母と島で暮らしている。
物語の舞台であるマーサズ・ヴィンヤード島は、米国のボストンの南に実在する。この島は先天性のろう者の割合が高かった。イギリス本土から渡って来た開拓者がもたらした遺伝性の聴覚障害が、狭い集落のなかで婚姻をくり返すうちに、子孫たちに受け継がれていったことが原因だった。島ではろう者が身近にいるのが当たり前のため、ろう者も聴者も島独特の手話で話していた。
マーサズ・ヴィンヤード島を調べたノンフィクション『みんなが手話で話した島』では、年老いた島民に聴き取り調査をした際、誰がろう者だったかを尋ねられても、すぐには答えられなかったというエピソードが出てくる。それくらい、ろう者は日常に溶けこみ、ろう者であることはその人を規定する特徴ではなかった。聞こえないことが「障害」にならない島の状態は、三百年ほど続いた。
この二冊の本を読んで、思い出したことがある。
中学生の頃、私は電車の中で手話で話をする人たちを見かけた。私が手話を目にするのは、テレビの手話ニュースの時だけで、実際に手話でやり取りする場に遭遇したのは初めてだった。「遭遇」ということばを使ってしまうほどに、手話は遠いものだった。
夕方の車内は少し混み始めていた。手話で話をする二人は、大学生くらいだろうか。話が盛り上がっているようで、両手が大きく動いている。私の耳元でシュッ、シュッと手で空を切る音がしていた。私はふと、居心地の悪さを感じた。車内に息を詰めたような重い空気が漂っている。私を含め、同じ車内にいる人たちは、明らかに二人を好奇の目で見ていた。あからさまに視線を遣る人はいなかったが、彼らを意識していることは空気ではっきりわかった。
居心地が悪くなったのは、車内の空気のせいだけではない。彼らの手振りを……いや、彼らのことばを、鬱陶しく感じてしまったからだ。何を話しているか知らないけど、混んできたのに盛り上がっちゃって。まるで外国語で内緒話をされているような疎外感と苛立ちを感じた。瞬間、はっとした。この居心地の悪さこそ、彼らが日常で感じているものだと気付いた。胸がサーっと冷たくなり、すぐに血が上って熱くなった。首筋に緊張した時のように冷や汗が滲んだ。
下り電車には、家路に着く人たちがどんどん乗り込んできた。二人のあいだにも人が入り込み、手話は中断された。話し足りなそうに、二人はお互い目を合わせながら苦笑いしていた。もし声でやり取りできるなら、まだ小声で会話できるくらいの距離だ。私は人に押しやられて彼らから離れた。いたたまれなかった。混雑で二人が手話をするスペースがなくなってしまったこと。自分が彼らを冷めた目で見てしまったこと。多数派の立場にある時は、少数派の人を気分ひとつで排除したくなる傲慢さが自分にもあること。そんな色々が入り混じり、うつむきながら電車に揺られていた。
メアリーは島のろう者を研究しに来た男にさらわれ、ボストンへ連れて行かれてしまう。島では聞こえる人も聞こえない人も対等なのに、ボストンでメアリーはひどい扱いを受ける。聞こえないことは知能が低い、劣っていると見做され差別を受ける。
障害が障害として扱われるのは、社会がいわゆる健常者のためのつくりになっているからではないか。そう考えられるように少しずつなってきたけれど、メアリーが受けた差別や偏見は、いまだ過去のものにはなっていない。自分の中にある差別的な面を思い出し、改めて見つめさせられた物語だった。
あちらの岸へ
私は心配症だ。初めてのことをする場合、とにかく調べまくってしまう。それでも安心できなくて、結局やらない…のではなく、だんだん心配するのが面倒くさくなり、見切り発車で始めてしまう。心配症のくせに面倒くさがり。これでなんとかやってきた。
来週、初めて作った本をイベントで販売することになった。イベントの開催を知ったのが一昨日で、申し込んだのは昨日だ。少し迷ったが、3月に雨天中止になったイベントのために準備しておいた物たちがそのまま部屋の片隅で待機中なので、せっかくだから陽の目を見せてあげよう、と参加を決めた。今年は「本を作る」が1番の目標だった。それは2月に達成した。なので次は「読んでもらう、届ける」経験をしてみたい。ささやかな一歩かもしれないけど、人前に出て自分の本を売るなんて、今までの自分では考えられない。心配と不安が川のように目の前を流れていく。じゃぶじゃぶと流れの中に入り、渡り切ったとき、向こう岸には何があるのだろう。楽しみでもある。