ZINEについてとりとめなく
先日、ZINEを販売するイベントに参加した。
初心者でも使いやすいツールが豊富になったおかげで、私もなんとかZINEを作れるようになった。誰に頼まれたわけでもなく作っている。売れる売れないは後回し。しかしツールが発達した結果、ZINEを世に出すハードルは逆に高くなったような気がする。誰でも作れるけれど、その分ある程度鑑賞に耐えられるレベルでないと見劣りしてしまうのでは、と尻込みする。
せっかくZINEを作ったのでイベントに参加する。SNSでの告知が重要なのは理解しているが、集客力や知人の数を意識したくないときも多々ある。人を数として見たくないし、売れた数を成果としたくない。
そもそも私が作っているものはZINEなのか。伝わりやすいのでZINEと呼んでいるけど、自主制作本の方が実はしっくりくるかも。ホッチキスで留めたり、折りたたんで手渡しで回しあう、あれこそZINEだなー。懐かしいし、むしろそういうZINEが欲しい。下手とか上手いとか、売れた数とか気にせず、もっと個人的なもの。
子どものころ、二つ折りにした紙をホッチキスで重ねて本の形になったときの興奮。小学校のクラスで作った、手書きの作文をコピーして束ねた文集。簡素だけど、束ねてあるだけで特別なものになった。そういう素朴で簡素なものへの憧憬がしっかり私の中に残っている。
以前、かつてガリ版で学級だよりを毎日作っていた先生たちの姿を追った本を読んだ。たとえば東北の山深い農村では、新聞を取るのも大変なので、担任の先生が学級の様子だけではなく新聞記事を抜粋して載せていた。それを毎日子どもが持ち帰り、農作業を終えた親たちが楽しみに読んでいたそうだ。この光景を想像してぐっとくるのは、情報過多に陥った現代人の懐古主義かもしれない。でも、これこそ紙の力だと思う。人が持っている知識欲、善くありたいという願いと実践の表れ。私がやりたいことは、このガリ版の学級だよりに近い。
今後もZINEのイベントには出るけど、私はホッチキスで中綴じしたZINEを積極的に作っていきたい。しかも区民センターのリソグラフを使って作る。技術を提供してくれるサービスにしっかりお金を払う一方で、公共の機器である区民センターのリソグラフで作ることにもこだわりたい。地域住民が安価な金額で使える、というところが大切で、それこそ「誰でも作れる」証明だと思うから。
以上、イベントに参加してみて感じたことでした。