阿佐ヶ谷すいか

「ママの好きな人がテレビに出てるよ!」

息子が大声で叫ぶ。私は慌てて洗濯物を取り込み、階下のリビングへと駆け降りた。ママの好きな人って誰だろう。長谷川博己かな?うっすらと甘い気持ちになってテレビを見ると、ピンクのドレスをまとったおかっぱの女性が、二人で歌っていた。そう、阿佐ヶ谷姉妹だ。

ね、ママの好きな人でしょ!と息子は満足そうに笑っている。うん、そうだねぇ、と歯切れ悪く応えた私は、頭に浮かんだ長谷川博己を追いやり、洗濯物を畳み始めた。阿佐ヶ谷姉妹は確かに好きだ。慌てて階段を駆け降りるほどではないけれど。彼女たちは不思議な存在だ。実家のような懐かしさがありつつ、なかなか辿り着けない理想の人間関係を見せてくれる、新しい存在なのだ。

隣同士に住んでお互いの家を行き交い、食事をしたり、だらだら話したりできる。部屋着のままの付き合い。変な見栄の張り合いもない。自立した大人同士だし、家族ではないので過度な寄り掛かりがない。その適度な距離感が最高だ。友達とこんな風に過ごせたら楽しいだろうな、と夢見てしまう。

女性二人が一緒に暮らす、というライフスタイルを知ったのは、漫画『NANA』が初めてだ。当時中学生だった私の周りでも『NANA』は大流行しており、奈々とナナのルームシェア生活は憧れの的だった。こんなおしゃれな部屋で友達と住むなんてかっこいい!いつかマンスリーアパートを借りてやってみたいよね!なんて、料理も掃除もまともにしたことがない中学生たちは、呑気に漫画のキラキラな部分だけを眺めて騒いでいた。マンスリーアパートを借りて、というところだけは現実味があるというか、身の程を知っていたようだけど。『NANA』は二十歳の若者の物語だ。このキラキラはいつまでも続かず、この先はどんどんドロドロの展開になっていく。

私たちも「友達同士でルームシェアしたいよね」と夢見ていたのに、いつのまにか「早く彼氏が欲しい」に変わり、「結婚したい、子どもを産むなら何歳までにしなきゃ」と夢は焦りに変わっていった。隣にいたはずの女友達は退かされ、そこは男性のいるべき場所になってしまった。誰に言われたわけでもないのに、いつのまにかそうなっていた。

この社会は「家族」という単位が最良のものとされていて、その「家族」は「男女が結婚する」ことが基盤となって作られる。だからそのレールから外れないように、私たちは隣にいる相手を女友達ではなく、男性に変えてきた。無意識だったが、振り返るとそれしか道がないと刷り込まれていた。卒業して就職して、数年したら結婚し、子どもを産んで育てる。この流れの通りに歩んできたが、ある時パタっと足が止まった。

私がいないのだ。夫と子どもたちがいる。毎日一緒に笑って泣いて、ごはんを食べて眠る。その繰り返しを何年もしているうちに、私がいなくなってしまった。平凡で平穏な幸せの中にいるのに、自分がすり減っていく。これからは家族を支えるのが私の一番の役目だと、腹を括っていたつもりだったのに。自分が他者になっていくような、離人感がつきまとう。子どものせいではないし、夫のせいでも、多分ない。誰のせいでもないのだが、ただただ「妻」と「母」という役割が重苦しくて仕方ない。そういえば、奈々とナナの別れのきっかけは、奈々の妊娠だった。タクミと結婚して妊娠中の奈々はそんなに幸せそうに見えなかったけど、あれからどうなったのだろう。

女性だけの暮らしには、ユートピア感がある。たとえば二〇〇三年に放送されたドラマ『すいか』は、賄いつきの下宿で暮らす四人の女性たちが主人公だ。四人は友達ではないけれど、ひとつ屋根の下で暮らし、ともに食卓を囲むうちに絆が生まれていく。べったり依存するわけではないが、誰かが傾きそうになったら、自分たちのやり方でそっと支えてくれる。理想の関係だと思う。何度も見返すドラマで、人生の指針だ。

そんな理想の関係が、女性同士だからこそ作られるとは思いたくない。『すいか』の四人の中に子育て中の人はいないが、子どもがいても理想の関係を作りたい。本音を言うと、阿佐ヶ谷姉妹のような、『すいか』のような関係を、私は夫と作りたい。子育てしながら、夫と「阿佐ヶ谷すいか」を目指したいのだ。子どもを、その父親を透明な存在にしたくない。だって、もうそこにいるから。これからも一緒にいたいから。

そのために、何をどうすればいいのか。どんな社会にすればいいのか。どんな声をあげ、どう動けばいいのか。答えはまだないけど、挑んでいこうと思う。