祖父と軍手

祖父母の暮らす都内の家に、小学生の頃はよく家族で泊まりに行っていた。居間に入ると、祖父が黒い革張りのソファに座ってうたた寝をしている。テレビはつけっぱなしで、決まって株の番組だった。そっとチャンネルを変えると、すかさず「今見てるんだ」と戻し、またすぐ目を閉じてしまう。今は亡き祖父を思い出すとき、真っ先に浮かぶ光景だ。

お笑い芸人のぺこぱが、漫才の中で「おじいちゃんの膝の上はなつかしい」と言っていた。あの漫才を見た人は、あぐらを組み、その上に孫を座らせて微笑むおじいちゃんの姿を思い出してじーんとしただろう。もちろん私もそんな姿を思い浮かべたが、浮かんだ顔は架空のおじいちゃんだ。私は、祖父の膝の上に座った記憶がない。手を繋いだこともない気がする。祖父は寡黙な人だった。保険会社に長く勤め上げた真面目な人でもあり、大正生まれという世代のせいか、あからさまな愛情表現はしない人だった。どことなく近寄りがたい存在ではあったが、孫の私と弟を愛情深く見守ってくれていた。

ある時、宿題で祖父母に戦時中の体験談を聞いてくるというものがあった。戦時中は小学生だった祖母は、疎開先での食事の話をしてくれた。祖父にも聞いてみたが、祖父は眉間に皺を寄せて少し考え込んだ。小さな声で「話したくないんだ」と呟くと、口をつぐんでしまった。私はびっくりして、台所にいた祖母と母の元に駆け込んだ。

「おじいちゃんが戦争の話をしてくれない!」

私の訴えに、二人は「え〜?」と苦笑いし、「おじいちゃん、話してあげてよ」とソファに座っている祖父に向かって声を掛けた。祖父は仏頂面のまま沈黙していたが、私を隣に座らせるとぽつぽつと話しだした。短い話だった。

戦時中、祖父は大学生だったため徴兵されなかったこと。上の兄は学徒出陣で召集され、神宮外苑での壮行会に参加したこと。終戦間際には祖父も召集されたが、国内で訓練、待機しているあいだに終戦を迎えたこと。主にそんな話だった。

私は祖父が戦場に行かなかったと聞いてホッとした。空襲や戦場の悲惨な光景は本や映像で見知ってはいたが、いざ祖父の口から聞くのは怖い、と思っていたのだ。

戦地には行かなかったが、空襲の後片付けには奔走した。「軍手をはめて、焼け焦げて亡くなった人たちを仲間と一緒に何度も運んだ」他にも語ったかもしれないが、私はそのひとことが強烈に心に残った。軍手って、キャンプや草取りでしか使ったことがない。死んだ人を運ぶために使ったなんて、思いもしなかった。私はしばらくの間、軍手を見ると焼け野原で亡くなった人たちを運ぶ、まだ青年の祖父の姿が目に浮かぶようになった。なんてことないはずの軍手が、戦争と結びつく恐ろしいものに変わった。メディアを通して知った戦争の方が、もっと悲惨で残酷だったが、どこか遠い世界の出来事だった。身近な祖父から聞く話は、戦争をぐっと足元まで引き寄せたのだった。

戦争の体験談を聞くのは、歓迎されることだと思っていた。戦争を経験した人は、自分の体験を話して後の世代に残したいはずだ、と安易に信じていた。祖父が口ごもった時も、さっさと話してくれればいいのに、とじれったかった。今なら、それが思い上がった考えだったとわかる。孫にだって話したくないことはあるだろう。何十年も経って平穏に暮らしていても、消えないしこりがあるかもしれない。辛い記憶を掘り起こして語ってもらうには、私はまだ未熟だった。生真面目で不器用な祖父らしいエピソードだ。

祖父が亡くなって十年以上経つ。祖父はときどき私の夢の中に現れる。夢の中でも相変わらず寡黙な祖父だが、目が覚めると、不思議と温かいものに触れたような感覚がある。それは、おじいちゃんの膝の上の温かさなのかもしれない。