相棒

息子が急にウルトラマンにハマった。たまたま出先でウルトラマンと怪獣のフィギュアを買ったのがきっかけだ。その日以来、いつもそばに置いている。食事のときは、食卓にウルトラマンと怪獣たちを並べる。食べるのが遅い息子の応援団だ。ときどき自立できなくてお皿にダイブしてしまうが、仕方ない。寝るときはもちろん枕元に並べるし、出かける時は厳選した一体を右手に握りしめている。常に「トゥ!ウォ!ウオリャー!」と雄叫びをあげ、ウルトラマンと一緒に戦っている。夢中だ。

息子には、赤ちゃんの頃からずっとお供にしているブランケット型のぬいぐるみがある。うさぎのミミちゃんだ。ミミちゃんは、六年間キープしている相棒の座を新参者のウルトラマンに奪われかけている。まだ寝るときはミミちゃんを抱きしめているが、それ以外はソファに置かれたまま。あんなに片時も離さなかったのに。おかげで数ヶ月ぶりにミミちゃんを洗うことができた。つけおきした水を何度替えても真っ黒になるほど、汚れていたミミちゃん。いつもありがとね、と思わず話しかけてしまった。息子がミミちゃんを卒業しても、ずっと手放さずにおくと決めている。真っ黒で、生地は縮れてスカスカになっているけれど、このボロさが愛おしい。幼児期を共に乗り越えたミミちゃんは、実は私の相棒でもあるのだった。

月と祈り

寝る前、子どもたちは必ず月を探す。ベッドに入る夜の9時頃に、月はちょうど寝室の窓から見える位置に浮かんでいる。カーテンを開いて月を見ては、一言声を掛ける。明日も楽しく過ごせますように。今日はなんであんなに赤いのだろう。あそこの雲が光ってるから、月が後ろにあるんだね。物心ついてから自然とついたその習慣は、子どもたちにとって、眠る前の祈りの時間なのだった。

2023/8/7

夜、寝入る瞬間に指さきに蝶がとまった。黒く縁取られた羽は、光の粒を含んだように青くきらめいている。驚いて振り払うと、蝶は消えてしまった。夢というにはあまりに鮮明で、夜の闇に消えた蝶を追いたくなった。どうしてここに来たの。どこへ行ったの。そのまま眠りの底に沈んでいった。

彼らのことば

『目で見ることばで話をさせて』

作:アン・クレア・レゾット

タイトルに惹かれて手にしたこの本は、ヤングアダルト向けの小説だ。

目で見ることばとは、手話のことだ。19世紀のはじめ、11歳のメアリーは、生まれつき耳が聞こえない。同じくろう者の父、聴者の母と島で暮らしている。

物語の舞台であるマーサズ・ヴィンヤード島は、米国のボストンの南に実在する。この島は先天性のろう者の割合が高かった。イギリス本土から渡って来た開拓者がもたらした遺伝性の聴覚障害が、狭い集落のなかで婚姻をくり返すうちに、子孫たちに受け継がれていったことが原因だった。島ではろう者が身近にいるのが当たり前のため、ろう者も聴者も島独特の手話で話していた。

マーサズ・ヴィンヤード島を調べたノンフィクション『みんなが手話で話した島』では、年老いた島民に聴き取り調査をした際、誰がろう者だったかを尋ねられても、すぐには答えられなかったというエピソードが出てくる。それくらい、ろう者は日常に溶けこみ、ろう者であることはその人を規定する特徴ではなかった。聞こえないことが「障害」にならない島の状態は、三百年ほど続いた。

この二冊の本を読んで、思い出したことがある。

中学生の頃、私は電車の中で手話で話をする人たちを見かけた。私が手話を目にするのは、テレビの手話ニュースの時だけで、実際に手話でやり取りする場に遭遇したのは初めてだった。「遭遇」ということばを使ってしまうほどに、手話は遠いものだった。

夕方の車内は少し混み始めていた。手話で話をする二人は、大学生くらいだろうか。話が盛り上がっているようで、両手が大きく動いている。私の耳元でシュッ、シュッと手で空を切る音がしていた。私はふと、居心地の悪さを感じた。車内に息を詰めたような重い空気が漂っている。私を含め、同じ車内にいる人たちは、明らかに二人を好奇の目で見ていた。あからさまに視線を遣る人はいなかったが、彼らを意識していることは空気ではっきりわかった。

居心地が悪くなったのは、車内の空気のせいだけではない。彼らの手振りを……いや、彼らのことばを、鬱陶しく感じてしまったからだ。何を話しているか知らないけど、混んできたのに盛り上がっちゃって。まるで外国語で内緒話をされているような疎外感と苛立ちを感じた。瞬間、はっとした。この居心地の悪さこそ、彼らが日常で感じているものだと気付いた。胸がサーっと冷たくなり、すぐに血が上って熱くなった。首筋に緊張した時のように冷や汗が滲んだ。

下り電車には、家路に着く人たちがどんどん乗り込んできた。二人のあいだにも人が入り込み、手話は中断された。話し足りなそうに、二人はお互い目を合わせながら苦笑いしていた。もし声でやり取りできるなら、まだ小声で会話できるくらいの距離だ。私は人に押しやられて彼らから離れた。いたたまれなかった。混雑で二人が手話をするスペースがなくなってしまったこと。自分が彼らを冷めた目で見てしまったこと。多数派の立場にある時は、少数派の人を気分ひとつで排除したくなる傲慢さが自分にもあること。そんな色々が入り混じり、うつむきながら電車に揺られていた。

メアリーは島のろう者を研究しに来た男にさらわれ、ボストンへ連れて行かれてしまう。島では聞こえる人も聞こえない人も対等なのに、ボストンでメアリーはひどい扱いを受ける。聞こえないことは知能が低い、劣っていると見做され差別を受ける。

障害が障害として扱われるのは、社会がいわゆる健常者のためのつくりになっているからではないか。そう考えられるように少しずつなってきたけれど、メアリーが受けた差別や偏見は、いまだ過去のものにはなっていない。自分の中にある差別的な面を思い出し、改めて見つめさせられた物語だった。 

あちらの岸へ

私は心配症だ。初めてのことをする場合、とにかく調べまくってしまう。それでも安心できなくて、結局やらない…のではなく、だんだん心配するのが面倒くさくなり、見切り発車で始めてしまう。心配症のくせに面倒くさがり。これでなんとかやってきた。

来週、初めて作った本をイベントで販売することになった。イベントの開催を知ったのが一昨日で、申し込んだのは昨日だ。少し迷ったが、3月に雨天中止になったイベントのために準備しておいた物たちがそのまま部屋の片隅で待機中なので、せっかくだから陽の目を見せてあげよう、と参加を決めた。今年は「本を作る」が1番の目標だった。それは2月に達成した。なので次は「読んでもらう、届ける」経験をしてみたい。ささやかな一歩かもしれないけど、人前に出て自分の本を売るなんて、今までの自分では考えられない。心配と不安が川のように目の前を流れていく。じゃぶじゃぶと流れの中に入り、渡り切ったとき、向こう岸には何があるのだろう。楽しみでもある。

怖いもの

息子の幼稚園がキリスト教の教えに基づいた教育をする幼稚園なので、久しぶりに「お祈り」した。保護者会のはじめにお祈りを捧げてから始まるのだ。特定の宗教、神様を信じてはいないが、祈る対象を設定し、決まったフォーマットで祈りを捧げる行為は気持ちが楽になる時がある。大きなものに乗っかる楽さに、つま先だけ浸かった感じだ。中学生の頃、学校の決まりで初めて地域の教会に登録し、何回か通った。親切で優しいおばさま方が迎えてくれた。礼拝だけでなく、その後にある日曜学校にも出席するように誘われて顔を出した。おそらく親に連れられて小さな頃から通っている同じ年頃の少年、少女たちがいた。彼らはおばさま方よりは素っ気なく、ほとんど話さなかった。お互い思春期だし、顔馴染みだけで固まるのは当然だった。なぜかこの文章を書きながら、彼らの顔が浮かんできた。たった数回しか会ったことがないのに。地域の教会はあっという間に通わなくなった。優しくされても、神様を信じていないまま通うのは心苦しかった。いつかは信じなくてはいけないのだろうな、というプレッシャーも重かった。教会に赴く理由が、「神様を信じているから」「心が安らぐから」ではなく、「学校の決まりだから」以上にならなかった。私は信仰というものが怖い。今もずっと怖い。

うちの子ここにいるよ

このブログに書いたことを大幅に直して、1冊の本を作った。とあるイベントで頒布するのを目標に作ったが、天候不良でイベントは中止になってしまった。今のところ、他に頒布するイベントが秋までないので、この作った本たちをどうしてあげればいいか悩み中だ。上半期に1回くらい、日の目を見せてあげたいという親心が湧いている。手に取ってもらえれば極上の幸せだけど、まずは「うちの子ここにいるよ〜」と紹介してあげたい。親バカです。

本を作るハードルは下がったが、実際に手に取ってもらう場に出る機会は少ない。いや、機会はあるのに私が疎いのだけど…。今回はまず、本を作ってみる!という第一目標は飛び越えた。そうすると次は手に取ってもらいたい、文章力を上げたい、という新たな目標が湧いてくる。これは良い傾向だ。マンネリして腐っていた私が、動き出せた。人生が楽しくなってきた。これだけで去年までの私と大きく違うのだから、最高じゃないか。さて、次の一歩を出そう。秋より前にお披露目する場を探しましょう。