息子の幼稚園がキリスト教の教えに基づいた教育をする幼稚園なので、久しぶりに「お祈り」した。保護者会のはじめにお祈りを捧げてから始まるのだ。特定の宗教、神様を信じてはいないが、祈る対象を設定し、決まったフォーマットで祈りを捧げる行為は気持ちが楽になる時がある。大きなものに乗っかる楽さに、つま先だけ浸かった感じだ。中学生の頃、学校の決まりで初めて地域の教会に登録し、何回か通った。親切で優しいおばさま方が迎えてくれた。礼拝だけでなく、その後にある日曜学校にも出席するように誘われて顔を出した。おそらく親に連れられて小さな頃から通っている同じ年頃の少年、少女たちがいた。彼らはおばさま方よりは素っ気なく、ほとんど話さなかった。お互い思春期だし、顔馴染みだけで固まるのは当然だった。なぜかこの文章を書きながら、彼らの顔が浮かんできた。たった数回しか会ったことがないのに。地域の教会はあっという間に通わなくなった。優しくされても、神様を信じていないまま通うのは心苦しかった。いつかは信じなくてはいけないのだろうな、というプレッシャーも重かった。教会に赴く理由が、「神様を信じているから」「心が安らぐから」ではなく、「学校の決まりだから」以上にならなかった。私は信仰というものが怖い。今もずっと怖い。
うちの子ここにいるよ
このブログに書いたことを大幅に直して、1冊の本を作った。とあるイベントで頒布するのを目標に作ったが、天候不良でイベントは中止になってしまった。今のところ、他に頒布するイベントが秋までないので、この作った本たちをどうしてあげればいいか悩み中だ。上半期に1回くらい、日の目を見せてあげたいという親心が湧いている。手に取ってもらえれば極上の幸せだけど、まずは「うちの子ここにいるよ〜」と紹介してあげたい。親バカです。
本を作るハードルは下がったが、実際に手に取ってもらう場に出る機会は少ない。いや、機会はあるのに私が疎いのだけど…。今回はまず、本を作ってみる!という第一目標は飛び越えた。そうすると次は手に取ってもらいたい、文章力を上げたい、という新たな目標が湧いてくる。これは良い傾向だ。マンネリして腐っていた私が、動き出せた。人生が楽しくなってきた。これだけで去年までの私と大きく違うのだから、最高じゃないか。さて、次の一歩を出そう。秋より前にお披露目する場を探しましょう。
2023/4/5
天気が良い。桜はもうほとんど散ってしまった。娘は明日から新学期。なんと8時15分に登校して9時15分に下校という、超短時間登校なのだ。新しいクラスと担任の先生が発表される。娘は特に緊張せず、明日から行くのめんどくさい〜とぼやきながら公園を走り回っていた。息子も明後日から新学期。こちらは新しい幼稚園に転園するので、私もドキドキしている。1年だけの新しい園での生活。どんな日々になるだろう。
公園の端には小さな池がある。岩の上に亀が集まっていた。数えると6匹、微動だにせず、せまい岩の上で日光浴している。甲羅に乾いた泥がこびりついている亀がいる。池の水で洗ってあげたい。汚れているのはこの子だけだ。鈍臭いのだろうか。
帰ってひとりでミスドに行き、2時間ほど読書した。数冊持ってきたけど、どれもしっくりこなくて読書というより、ページをめくってはボーッとカフェオレを飲む、を繰り返した2時間だった。
帰って息子の幼稚園の連絡帳カバーを作った。3時間もかかった。苦手ってこういうことだ。やたら要領が悪く時間がかかる。得意な人がやれば30分でできるだろう。四苦八苦の結果、ガタガタな縫い目のカバーがこの世に生まれた。
ロートレックの欠片
ロートレックはお好きですか?
ロートレックは、十九世紀末のフランスの画家だ。少年の頃に脚を骨折したのが原因で下半身の成長が止まり、身体にコンプレックスを抱えていた。パリのキャバレーや娼館に集う人々を描き、ポスターを芸術の域にまで高めたといわれている。
私は、ロートレックの生まれかわりらしい。
引きましたね? 実際、私もそう言われた時は戸惑った。
ロートレック? 画家の? 絵心なんて全くないのに?
熱心にペンを走らせていた手が止まった。
占い師さん、本気で言ってます?
数年前のことだ。私はある占い師さんのもとを訪れていた。悩みがあって鬱々としていたら、友人が紹介してくれたのだ。
占いはカウンセリングだと思う。こんがらがった頭と心を、占いという技術で揉みほぐしてもらうのだ。その人はオーラと前世を見てくれるという。手相なら違う占い師さんに診てもらったことがあるが、前世は初めてだ。
当たる、当たらないばかりに気を取られないようにする。占い師さんを試すようなことはしない。盲信しない。心を開いて、フラットに話をする。それらを心掛けて、いざ占いの館の扉を開けた。実際は館ではなく、ごく普通のマンションの一室だが。
占い師さん(仮に中田さんと呼ぶ)は、肩までのボブにメガネをかけた女性だった。部屋はさっぱりしていて、水晶などの占いっぽい小物は見当たらない。私たちはソファに向かい合って座った。まるで友達のお母さんと話しているような気やすさがあった。
雑談をしながら、私は悩みを打ち明けた。
私は集団の中に入るのが苦手で、いつもなんとなく外れているような気がする。特に新卒の時の職場と、幼稚園の保護者の輪の中になかなか馴染めなかったことが、自分は人として何か欠けているのではないかと、ひどく落ち込んでしまった。端的に言うとそんな悩みだった。
話しているうちにボロボロ涙が出てきた。改めて言葉にすると、子供じみていて恥ずかしい。でもこの数年間の大きな悩みなので、思い切って話せて良かった。
中田さんは一通り話を聞くと、ゆっくり口を開いた。
あなたはとても愛情深く、優しい人です。
霊感体質で、人の心が読めてしまう。相手の考えていることがわかるから、感じやすくて疲れてしまう。
自分のことを協調性がないと言うけど、ちゃんとありますよ。慈愛に満ちて、平和主義です。人の念を受けやすいから、集団の中に入らないのは、自分を守るために当然のことです。苦手な人には近寄らず、今まで通り、合う人とじっくり関係を続ければいいんですよ。
主にこんな内容だった。ちなみに、以前に他の占いに行った際にも、霊感があると言われていた。
「幽霊とか見えたことないんですけど」
「幽霊じゃなくて、人の念を受け取りやすいという意味で、霊感体質なんですよ」
なるほど、そうなのか。
「自分の価値観を信じて、外に出て自分の世界を表現してください。そうしているうちに、だんだん人のことは気にならなくなりますよ。せっかく良いものをもっているのに、楽しまないところが欠点。自分の直感を大切にしてね」
悩みの底にいた私にとって、中田さんの話は一筋の蜘蛛の糸だった。真っさらな状態で、私という人間を見てもらえた気がした。だんだん私の心は軽くなった。また悩みそうになった時のために、中田さんに言われたことはその場でノートにメモした。
それから私のオーラや守護霊、そして前世の話になった。ここからはエンタメとして、気楽に聞こうと姿勢をゆるめた。
カウチに寝たり、体に触れられるのかと思っていたが、特に何もせず、そのままの調子で中田さんは私の前世を語り始めた。
パリで絵を描く男性の姿が見える。油絵ではなく、もっとさらっとした画風。ロートレックという言葉が浮かぶ。中田さんは確信した。
「あなたはロートレックの生まれかわりだわ」
私はノートにロートレック、と書いた。ハテナを付け足すか、少し迷った。
名を馳せた人は魂が大きくて、何人もの人間に分かれて生まれかわるそうだ。つまりロートレックの生まれかわりは他にもいる。大島弓子の漫画『秋日子かく語りき』では、みんなで一人の人間に生まれかわるというエピソードがあったが、その逆バージョンだ。
さらにその前は日本の武士で、外国の技術を藩に取り入れようと勉強熱心な人だったらしい。
真面目な武士、フランスの有名画家、そして私。私の指先から見えない糸が伸びて、二人に繋がっている姿を想像してみた。しっくりくるような、こないような。
後で家族や友達に報告すると、笑い半分、納得半分といった反応だった。
私は吹っ切れた。占いが嘘でも本当でも、どちらでもいい。人智を超えたものがこの世にはあって、中田さんを通じてその端っこに触れた。そう思うと、清々しい気分になった。それでいい。蜘蛛の糸を、私は登り切れた。
家に帰ってから、私はロートレックのことを調べ、彼の短い人生に想いを馳せた。
ロートレックさん、私はあなたの欠片の一部らしいです。あなたは残念ながら早逝されたけど、私は大器晩成だそうです。あなたが見られなかった景色を、見られるかもしれませんね。いつか、あなたが繰り返し描いたムーランルージュに行ってみたいです。
画風としてはゴッホの方が好きなのは、秘密にしておこう。
おままごと仲間
一年という短い期間だけど、保育士として働いたことがある。まさか自分が保育士になるなんて、夢にも思わなかった。
そもそも、私自身は幼稚園に通っていたし、娘の妊娠を機に退職したので、保育園とは無縁だった。
保育士に興味をもったのは、息子を妊娠中に切迫早産になり、二歳の娘を一時保育に預けたことがきっかけだった。
初めて私と離れた娘は、最初は泣いていたものの、すぐに馴染んだ。新しい歌を覚えたり、先生やお友達の話を楽しそうにしてくれた。自分でリュックから荷物を出すなど、目に見えて成長した姿には驚いた。
先生が娘の様子を連絡帳で報告してくれるのも嬉しかった。日中は一人で育児をしていて、不安や孤独になることがあった。家族以外に子育てを助けてくれる人がいるなんて、心強くてありがたさが身に沁みた。
家庭だけではなく、社会で子どもを育てる。そんな理想がリアルに感じたできごとだった。
もっと広い視点で子育てについて知りたくなり、試験を受けて保育士の資格を取った。
余談だが、独学での試験勉強は、ネットの情報にかなり助けられた。個人で保育士試験のホームページを作っている方がいて、よく参照した。市販のテキストではちんぷんかんぷんだった音楽理論が理解できたのは、その方のおかげだ。
世の中は見ず知らずの人々の善意で回っている。
資格を取得してすぐに、契約職員として働き始めた。土曜日の朝から昼食後までの短時間だけど、数年ぶりに働くのは気分転換にもなって楽しかった。
私が働いていた保育園は、ゼロ歳から二歳までの少人数で、土曜日は多くても六人くらいしかいなかった。
正職員の先生は、九時までは集中して事務仕事をする。朝一番に子どもたちを迎えるのは、私の役目だった。
七時に保育園を開けると、すぐに登園する女の子がいた。二歳児クラスのいっちゃんだ。いつも一番のりで、次の子が来るのは八時過ぎだ。
私たちは、二人でよくおままごとをした。
「いっちゃん、お腹すいた。ごはん作って」
犬のぬいぐるみを動かして私が言うと、いっちゃんはすぐにハンバーグやオムライスを作ってくれる。デザートのイチゴも欠かさない。イチゴはいっちゃんの好物だ。
「はい、どうぞ。いただきますしてね」
「いただきまーす。もぐもぐ、美味しいね。あちち、火傷しちゃった!」
お水飲むんだよ、といっちゃんはぷっくりした手で、コップを口に当てがってくれた。
こんな感じで、一時間くらい二人で遊ぶ。ストーリーもオチもなく、延々と続く。
最初は間がもたないかも、他の先生に聞かれて恥ずかしい……と思っていたが、すぐに慣れた。むしろ、ものすごく楽しかった。
我が子と遊ぶときはすぐ飽きてしまうのに、仕事だとノリノリの私。
どんな子でも、布や物を手にすると、すぐにおままごとを始める。人間は演劇をする本能があるんだな、と感心した。
私も、おままごとを楽しんだ。面と向かってだと恥ずかしくても、ぬいぐるみの姿を借りたら二歳の子とも親友だ。
いっちゃんは早生まれで、話し方も動きもゆっくりだった。そのため、他の子達の勢いに圧倒されることがよくあった。先生に話しかけたいのに、他の子達がさっと先生に駆け寄ると、後ろに引っ込んでしまう。見ていて歯がゆいが仕方ない。
この朝の一時間は、いっちゃんにとって大人とゆっくり過ごせる、和やかな時間だったかもしれない。そうだったら嬉しい。
その後、引越しなどの事情で仕事はやめてしまった。今頃、いっちゃんは年長さんになっているはずだ。今でもイチゴが好きだろうか。他の子とやりあえるくらい逞しくなっただろうか。
おままごと仲間として、元気でいることを願っている。
阿佐ヶ谷すいか
「ママの好きな人がテレビに出てるよ!」
息子が大声で叫ぶ。私は慌てて洗濯物を取り込み、階下のリビングへと駆け降りた。ママの好きな人って誰だろう。長谷川博己かな?うっすらと甘い気持ちになってテレビを見ると、ピンクのドレスをまとったおかっぱの女性が、二人で歌っていた。そう、阿佐ヶ谷姉妹だ。
ね、ママの好きな人でしょ!と息子は満足そうに笑っている。うん、そうだねぇ、と歯切れ悪く応えた私は、頭に浮かんだ長谷川博己を追いやり、洗濯物を畳み始めた。阿佐ヶ谷姉妹は確かに好きだ。慌てて階段を駆け降りるほどではないけれど。彼女たちは不思議な存在だ。実家のような懐かしさがありつつ、なかなか辿り着けない理想の人間関係を見せてくれる、新しい存在なのだ。
隣同士に住んでお互いの家を行き交い、食事をしたり、だらだら話したりできる。部屋着のままの付き合い。変な見栄の張り合いもない。自立した大人同士だし、家族ではないので過度な寄り掛かりがない。その適度な距離感が最高だ。友達とこんな風に過ごせたら楽しいだろうな、と夢見てしまう。
女性二人が一緒に暮らす、というライフスタイルを知ったのは、漫画『NANA』が初めてだ。当時中学生だった私の周りでも『NANA』は大流行しており、奈々とナナのルームシェア生活は憧れの的だった。こんなおしゃれな部屋で友達と住むなんてかっこいい!いつかマンスリーアパートを借りてやってみたいよね!なんて、料理も掃除もまともにしたことがない中学生たちは、呑気に漫画のキラキラな部分だけを眺めて騒いでいた。マンスリーアパートを借りて、というところだけは現実味があるというか、身の程を知っていたようだけど。『NANA』は二十歳の若者の物語だ。このキラキラはいつまでも続かず、この先はどんどんドロドロの展開になっていく。
私たちも「友達同士でルームシェアしたいよね」と夢見ていたのに、いつのまにか「早く彼氏が欲しい」に変わり、「結婚したい、子どもを産むなら何歳までにしなきゃ」と夢は焦りに変わっていった。隣にいたはずの女友達は退かされ、そこは男性のいるべき場所になってしまった。誰に言われたわけでもないのに、いつのまにかそうなっていた。
この社会は「家族」という単位が最良のものとされていて、その「家族」は「男女が結婚する」ことが基盤となって作られる。だからそのレールから外れないように、私たちは隣にいる相手を女友達ではなく、男性に変えてきた。無意識だったが、振り返るとそれしか道がないと刷り込まれていた。卒業して就職して、数年したら結婚し、子どもを産んで育てる。この流れの通りに歩んできたが、ある時パタっと足が止まった。
私がいないのだ。夫と子どもたちがいる。毎日一緒に笑って泣いて、ごはんを食べて眠る。その繰り返しを何年もしているうちに、私がいなくなってしまった。平凡で平穏な幸せの中にいるのに、自分がすり減っていく。これからは家族を支えるのが私の一番の役目だと、腹を括っていたつもりだったのに。自分が他者になっていくような、離人感がつきまとう。子どものせいではないし、夫のせいでも、多分ない。誰のせいでもないのだが、ただただ「妻」と「母」という役割が重苦しくて仕方ない。そういえば、奈々とナナの別れのきっかけは、奈々の妊娠だった。タクミと結婚して妊娠中の奈々はそんなに幸せそうに見えなかったけど、あれからどうなったのだろう。
女性だけの暮らしには、ユートピア感がある。たとえば二〇〇三年に放送されたドラマ『すいか』は、賄いつきの下宿で暮らす四人の女性たちが主人公だ。四人は友達ではないけれど、ひとつ屋根の下で暮らし、ともに食卓を囲むうちに絆が生まれていく。べったり依存するわけではないが、誰かが傾きそうになったら、自分たちのやり方でそっと支えてくれる。理想の関係だと思う。何度も見返すドラマで、人生の指針だ。
そんな理想の関係が、女性同士だからこそ作られるとは思いたくない。『すいか』の四人の中に子育て中の人はいないが、子どもがいても理想の関係を作りたい。本音を言うと、阿佐ヶ谷姉妹のような、『すいか』のような関係を、私は夫と作りたい。子育てしながら、夫と「阿佐ヶ谷すいか」を目指したいのだ。子どもを、その父親を透明な存在にしたくない。だって、もうそこにいるから。これからも一緒にいたいから。
そのために、何をどうすればいいのか。どんな社会にすればいいのか。どんな声をあげ、どう動けばいいのか。答えはまだないけど、挑んでいこうと思う。
祖父と軍手
祖父母の暮らす都内の家に、小学生の頃はよく家族で泊まりに行っていた。居間に入ると、祖父が黒い革張りのソファに座ってうたた寝をしている。テレビはつけっぱなしで、決まって株の番組だった。そっとチャンネルを変えると、すかさず「今見てるんだ」と戻し、またすぐ目を閉じてしまう。今は亡き祖父を思い出すとき、真っ先に浮かぶ光景だ。
お笑い芸人のぺこぱが、漫才の中で「おじいちゃんの膝の上はなつかしい」と言っていた。あの漫才を見た人は、あぐらを組み、その上に孫を座らせて微笑むおじいちゃんの姿を思い出してじーんとしただろう。もちろん私もそんな姿を思い浮かべたが、浮かんだ顔は架空のおじいちゃんだ。私は、祖父の膝の上に座った記憶がない。手を繋いだこともない気がする。祖父は寡黙な人だった。保険会社に長く勤め上げた真面目な人でもあり、大正生まれという世代のせいか、あからさまな愛情表現はしない人だった。どことなく近寄りがたい存在ではあったが、孫の私と弟を愛情深く見守ってくれていた。
ある時、宿題で祖父母に戦時中の体験談を聞いてくるというものがあった。戦時中は小学生だった祖母は、疎開先での食事の話をしてくれた。祖父にも聞いてみたが、祖父は眉間に皺を寄せて少し考え込んだ。小さな声で「話したくないんだ」と呟くと、口をつぐんでしまった。私はびっくりして、台所にいた祖母と母の元に駆け込んだ。
「おじいちゃんが戦争の話をしてくれない!」
私の訴えに、二人は「え〜?」と苦笑いし、「おじいちゃん、話してあげてよ」とソファに座っている祖父に向かって声を掛けた。祖父は仏頂面のまま沈黙していたが、私を隣に座らせるとぽつぽつと話しだした。短い話だった。
戦時中、祖父は大学生だったため徴兵されなかったこと。上の兄は学徒出陣で召集され、神宮外苑での壮行会に参加したこと。終戦間際には祖父も召集されたが、国内で訓練、待機しているあいだに終戦を迎えたこと。主にそんな話だった。
私は祖父が戦場に行かなかったと聞いてホッとした。空襲や戦場の悲惨な光景は本や映像で見知ってはいたが、いざ祖父の口から聞くのは怖い、と思っていたのだ。
戦地には行かなかったが、空襲の後片付けには奔走した。「軍手をはめて、焼け焦げて亡くなった人たちを仲間と一緒に何度も運んだ」他にも語ったかもしれないが、私はそのひとことが強烈に心に残った。軍手って、キャンプや草取りでしか使ったことがない。死んだ人を運ぶために使ったなんて、思いもしなかった。私はしばらくの間、軍手を見ると焼け野原で亡くなった人たちを運ぶ、まだ青年の祖父の姿が目に浮かぶようになった。なんてことないはずの軍手が、戦争と結びつく恐ろしいものに変わった。メディアを通して知った戦争の方が、もっと悲惨で残酷だったが、どこか遠い世界の出来事だった。身近な祖父から聞く話は、戦争をぐっと足元まで引き寄せたのだった。
戦争の体験談を聞くのは、歓迎されることだと思っていた。戦争を経験した人は、自分の体験を話して後の世代に残したいはずだ、と安易に信じていた。祖父が口ごもった時も、さっさと話してくれればいいのに、とじれったかった。今なら、それが思い上がった考えだったとわかる。孫にだって話したくないことはあるだろう。何十年も経って平穏に暮らしていても、消えないしこりがあるかもしれない。辛い記憶を掘り起こして語ってもらうには、私はまだ未熟だった。生真面目で不器用な祖父らしいエピソードだ。
祖父が亡くなって十年以上経つ。祖父はときどき私の夢の中に現れる。夢の中でも相変わらず寡黙な祖父だが、目が覚めると、不思議と温かいものに触れたような感覚がある。それは、おじいちゃんの膝の上の温かさなのかもしれない。